線維筋痛症資料書庫

線維筋痛症を難病指定に!

患者手記② 「暗闇を照らす光」が欲しい

「暗闇を照らす光」が欲しい

井出 育子

(ブログリンク https://note.com/flutist_umako/n/n426c9799a1b4?fbclid=IwAR0gDqrpIOFUhWoTolM8KIESnphEC-zMWQMEFETBf0yCwllFklxyGMIf46w)

「こんなはずじゃなかった…。」

こう思ったことのない線維筋痛症患者はいないのではないだろうか。もちろん、風邪で熱が出て苦しい時も、他の病気に苦しむ人も同じように感じるかもしれない。しかし、風邪は原因が分かっているから、多くの他の病気も治療までのプロセスが、暗闇の中を照らす光が見えているから踏ん張ることができる。毎日先の見えない激痛にさいなまれている私たちは何を光に生きていけばいいのだろう。通うことが可能な専門医はいない。積極的な原因究明がなされないため、主治医ともども手探り状態である。

 

私は山梨県八ヶ岳のふもとで生まれ育った。中学生までは、身体を動かすことが楽しくて仕方がなく競技スキーにバレーボール、陸上もやっていた。私のまっすぐだった人生がさいしょに歪んだのが15歳の夏に両膝の突然の激痛のため手術を受けた時だった。私の膝の半月板は「半月」ではなく、「満月」だった。その際医師は、画像上も問題なく、血液検査で異常もない、完璧な手術だったと言っていたが、私の印象はそれとは全く異なるものだったのだ。それは手術から何か月か経った外来でのこと。まだ酷く痛むと伝えるも、その医師は自分の手術は完璧だったといつも通り饒舌になり、その年頃の私には似つかわしくない量の痛み止めを処方されるだけであった。

 

今思うと、私の「線維筋痛症生活」はその頃から始まっていたのであろう。私や私たち家族はすがる思いで、良いと言われている病院を回り、民間療法も数えきれないほど試した。しかし、私を診て下さる医師の中にはあなたの気のせいではないか?と仮病や詐病を疑う医師もいた。その頃の私は傷つかないでいるほどまだタフではなかった。

 

やがて、痛みと杖での生活の中にも私に将来の目標ができた。それは、16歳の入院生活だった。私はあるご夫婦に出会った。重度の失語症を患う夫の世話をする奥さんの間では、コミュニケーションがとれている様に私は感動し、言語聴覚士を目指すようになった。栃木の大学に進学し、一人暮らしを始めた私の前には様々な壁が立ちはだかったが、親友や、地元の方々、時には教授陣にも助けられ、途中でもう歩けなくなり車いすになった時も、私の心は折れなかった。それどころか、私はもっともっと勉強や臨床、研究がしたくて、やがて大学院で博士号まで取って、私のこの姿で後輩の育成をしたいと強く自分自身との約束をした。

 

しかし…、私の病状が大きく変化したのは4年生の臨床実習時だった。足は象の足の様に浮腫んでしまい、サポートしてくださっていた医師からドクターストップを言い渡されたのだ。私は休学し、治療に専念したが、病状は悪くなる一方だった。2年間の休学、そして藁にもすがる治療の後、私は半ば強引に復学した。その頃の私は重い症状、薬の副作用によりとても「言語聴覚士」として勉強できる状態ではなかった。しかし、今思うとあの時私は自分のことが全然分かっていなかったのだ。講義の間や臨床実習の最中に眠り込んでしまったり、意識がなくなってしまったりする事が続いていたようで、栃木まで私のサポートに来てくれていた母に連絡が行っていたそうだ。

 

実は、私は休学中に受けた治療の後遺症として、治療から過去6年間ほどの記憶と、治療から今までの記憶に、霧がかかっている。そんな中でさえ私は「言語聴覚士」になりたくて仕方がなかったが、8年間を経て卒業したものの、国家試験を受けられる状態ではないことから、長年の夢を諦めざるを得なかった。悔しくて、悔しくて、今でもその思いは私の人生の足かせとなって私に影を落とす。

 

そして現在の私はどんな生活を送っているのか想像できるだろうか?言語聴覚士として働いているか?答えはその180度真逆の状態にある。現在の私は排泄と入浴の時以外の約90%は寝たきり生活なのだ。両親も高齢なため、私の世話をするには体力がないので実家近くの、障害者支援施設に入所。激しい痛みにより歩く事も、車いすをこぐ事も出来なくなってしまったため、電動車いすを使って移動はしている。私の住んでいる地域の周辺には線維筋痛症専門医と呼ばれる人がいない。専門医ではないが熱心に診て下さる先生にお世話になっているが、主治医も私も試行錯誤しながらの治療だ。両親が高齢で1時間の長距離運転は親子ともども疲弊してしまうため、この医師の元には本当は1週間に一度の受診を勧められているが、2週間に一度の受診だ。東京の線維筋痛症の専門医の受診を夢見るも、現実的ではないのだ。というのは、私はこの約15年間に重症肺炎を2回、誤嚥性肺炎、細菌性の肺炎を繰り返したため24時間の酸素吸入が必要となった。移動するには、重たい酸素ボンベを何本も持たなければならず、これ以上遠くの病院への受診はとても難しいからだ。

 

全身、特に頭・背中・腰・股関節の痛みが酷い。まるで関節や骨は斧で割られ、全身は剣山で刺されたまま、ぐちゃぐちゃにされている様だ。また、手足は痺れて電気が走っている様で、それを少しでも緩和するために着けだしたのが、良くむち打ちの人がつける首の固定具だ。首が頭を支えることができなくなっていると医師から説明を受けた。局所性ジストニアといって指の不随意運動もある。他には、倦怠感が酷くて、バッテリーのなくなったスマホの様に動くことができない。背中の上に大きな岩が乗っている様である。また、皮膚の知覚過敏により年間通して半袖のTシャツにショートパンツの生活で、寒くても布団もタオルケットすらかけられない。光の刺激も目の奥が痛むため、暗い中で過ごすしかない。パソコンの光すら最小限にしている。目と同じように耳も同じだ。だから、私の部屋にテレビは置いていない。そして信じられないかもしれないが、私は毎日1~3回痛みにより失神してしまう。痛みをこらえている時に息を止めてしまうのも数ある要因のひとつだ。これらがすべて24時間365日絶えずに、だ。

 

この病気により、寝たきり生活になった私には二次的な症状を生み出してしまう。褥瘡や廃用性症候群で歩行困難になった事、歩けない事により骨密度が同年代の平均値の半分近くになってしまう。まさに負のループである。

 

食事もベッドの上で食べさせてもらっている状態だ。これを「助けてくれる人がいるだけマシ」と捉える人もいるだろうが、ベッドの上の生活で楽しみといったら食事くらいなのに、それを自由に食べる事さえ許されない身体なのである。

 

それでも私は自分の人生を謳歌したい。だから酸素吸入をしているにも関わらず、5年前に一目惚れならぬ一聴き惚れしてしまったフルートにチャレンジしている。もちろん出来る時だけベッドの頭を上げて、ベッドの上で練習し、レッスンを受けている。健常者の様に上手くはないし、自己満足なのかもしれないが、「聴きたい」と言ってくださる方がいるからがんばれる。また、最近調子が芳しくないため1か月に4回というプランに変えたが、1ヶ月前までは5年間ほぼ毎日朝4:30から25分間のオンラインで英会話を習ってきた。ベッドやこの部屋から世界に飛び出したかったからだ。この時間はどうせ夜眠れないという事もあるが、4時が薬の時間なため周りも静かだしちょうどいい時間だったのだ。私の心が壊れなかったのはフルートと英会話があったからだ。

 

また、同じ苦しみを持つ人のヒーラーになるべく、ボランティア活動としてピアカウンセラーをさせていただいている。正直、私にピアカウンセラーとして同じ線維筋痛症の患者さんの苦痛を取り除けているのか自信はない。ただ、症状と関係のない事を相談されることもあるが、そこは聞き役に徹し、患者さんの重荷を下ろしたところで、一緒に悩んだり、私の車いすで一人暮らしをしていた時の実体験がこんなところで役に立ったりと、まさにピア「患者さんとの二人三脚」をしながら日々お互いに成長している。しかし、私が思い描いていた人生とはかけ離れている生活だ。

 

ただし、この病気になった事で私は言語聴覚士の存在を知ることができ、同じ目標を持った友と勉強に没頭できたことはいい思い出である。私の足かせがプラスマイナスゼロ、とはさすがに無理があるが、この病気になって知った事、同じように大変な思いをしている人と知り合う事ができたのは「人生捨てたもんじゃない」と思える。

 

私は思うのだ。私と同じ思いで夢を諦める線維筋痛症患者をこれ以上増やしたくない。もしも私たちの病気が難病指定に入り、研究する機関が増えれば、一度諦めた夢をいつか叶えることができる患者が増えると私たちは信じている。今私たちは暗闇に閉じ込められている状態である。痛くても生きていくために働かなければいけない人もいる。家族にさえ理解してもらえず、痛みに耐えながら主婦をしている人もいる。それが今の現実である。

 

今私の文章をここまで読んでくださったことに感謝しております。どうか、私たちに希望という名の光をひとりひとりに持たせて欲しい。どうか、線維筋痛症の難病指定についてご一考をよろしくお願い致します。